2011年11月30日

スーザン・ソンタグ『良心の領界』(NTT出版 木幡和枝訳)序

 図書館で借りたスーザン・ソンタグ『良心の領界』(木幡和枝訳 NTT出版2004)の序文がすばらしすぎたので、書き付けがわりにここで引用。ほかにもブログでまるまる引用してる方が結構いらっしゃって、その事実がそのまま、この文がおおくのひとのこころにのこる名文であることの証左なんだろなあ。

若い読者へのアドバイス……

(これは、ずっと自分自身に言いきかせているアドバイスでもある)





 人の生き方はその人の心の傾注アテンションがいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。注意力アテンションの形成は教育の、また文化そのもののまごうかたなきあらわれです。人はつねに成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質な物事に対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめること、挑戦を受けることに一生懸命になってください。

 検閲を警戒すること。しかし忘れないこと――社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、自己・・検閲です。

 本をたくさん読んでください。本には何か大きなもの、歓喜を呼び起こすもの、あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。その期待を持続すること。二度読む価値のない本は、読む価値はありません(ちなみに、これは映画についても言えることです)。

 言語のスラム街に沈み込まないよう気をつけること。

 言葉が指し示す具体的な、生きられた現実を想像するよう努力してください。たとえば「戦争」というような言葉。

 自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または、少なくとも持てる時間のうちの半分は、考えないこと。

 動きまわってください。旅をすること。しばらくのあいだ、よその国に住むこと。けっして旅することをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋めあわせをしてくれます。たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます。

 この社会では商業が支配的な活動に、金儲けが支配的な基準になっています。商業に対抗する、あるいは商業を意に介さない思想と実践的な行動のための場所を維持するようにしてください。みすから欲するなら、私たちひとりひとりは、小さなかたちではあれ、この社会で心が欠如したものごとに対して、拮抗する力になることができます。

 暴力を嫌悪すること。国家の虚飾と自己愛を嫌悪すること。

 少なくとも一日一回は、もし自分が、旅券をもたず・・・、冷蔵庫と電話のある住居をもたない・・・・でこの地球上に生き、飛行機に一度も・・・乗ったことのない・・、膨大で圧倒的な数の人々の一員だったら、と想像してみてください。

 自国の政府のあらゆる主張にきわめて懐疑的であるべきです。ほかの諸国の政府に対しても、同じように懐疑的であること。

 恐れないことは難しいことです。ならば、いまよりは恐れを軽減すること。

 自分の感情を押し殺すためでないかぎりは、おおいに笑うのは良いことです。

 他者に庇護されたり、見下されたりする、そういう関係を許してはなりません――女性の場合は、いまも今後も一生をつうじてそういうことがあり得ます。屈辱をはねのけること。卑劣な男は叱りつけてやりなさい。

 傾注すること。注意を向ける、それがすべての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと。そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、みずからの生を狭めてはなりません。

 傾注は生命力です。それはあなたと他者をつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしていてください。

 良心の領界を守ってください……。





 二〇〇四年二月
 
                           スーザン・ソンタグ




良心の領界 [単行本] / スーザン ソンタグ (著); Susan Sontag (原著); 木幡 和枝 (翻訳); NTT出版 (刊)
posted by rin_kun at 19:37| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月17日

違和・調和・対話。

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 松山市在住の銅作家、青山幸雄氏の作品展『AKA展』が、2011/11/05(土)から11/11(金)のあいだ、松山市祝谷の喫茶店café new classicさんにて開催され、その記念として、会期中の六日(日)におこなわれたライブにて、お呼ばれ演奏してきました。



 僕じしんの演奏は、ぼつぼつまあまあで次回にむけてさらなる反省をもとめる、というような調子でしたけれど、店内の壁やつくえに据えられた作品たちや、カフェのおだやかな雰囲気にあてられてなんとなくいろいろ考えてしまい、ライブのMCでもぽろりとこぼしてしまった考えごとの内容を、帰宅して寝ておきて、くりかえしあたまで反芻しふくらませて、白紙のうえにつらつらと綴ってみたりしました。ちょっと長いですが、読んでいただければありがたいです。



 調度に椅子卓子、小洒落て簡素に芯のみがかれた店内にぽつりぽつり、行儀よく展示された作品たち。緑青どくとくのいろあいと曲線的なかたちがとりわけ印象深く、壁にかけられたおおきな作品にはふんわりと愛嬌があり、金属製であることを忘れさせるほどのやわらかさをおぼえる。しかし珈琲をまつあいだ、壁や机上の青みがかったふくらみによくよく目をこらせば、愛嬌が違和感にごろりと転ずる。



 バーナーで溶かして開けられたというふぞろいの穴々の、ふちのどぎつい盛りあがりや、緑青のあいまにちらちら見え隠れするすすけた赤銅のなごり。すかすかの胴体はつねに作品のむこうや内側を透かし、ていねいに調律されたカフェの空間の、木目調の色彩のなかにすっと溶けこみ、壁や机の色味とまざりあうフォルムのやわらかさのなかに鑑賞者の目をまどわしていくが、作品それじたいをみつめようとすれば、視線はその細部、たくさんの穴をつなぎとめるまだらな緑青の、やすりのような肌や、半熟のままかたまった銅のなまなましさをとらえざるをえず、日常に見ないその質感の奇矯さに、すこしばかり物怖じをおぼえる。



 テーブルのうえの花器の、凝視してグロテスクにもおもえる風貌に魅せられ、ためつすがめつ、しかしこれはなんだろうとおもいなやみながら、テラスに植えられた草木がふいに目にとまり、「ああ、こういうことか」と勝手に納得をした。



 自分は園芸というものにあまり縁がない人間で、植物といえば、食材の調達によったスーパーマーケットの店先にならぶ観葉植物、四角四面に陳列されたそれを、今晩の献立をおもいあぐねる脳味噌の鼻先にひっかけて、見るともなくとおりすがるほどのもので、たまになにかの拍子に、地面にふかく根をはった草木のおもいきり萌えるさまをまじまじとみつめ、くろぐろとした肌艶や花実のかたちの奇矯さに、はっとすることがある。



 花冠は植物の生殖器であるという、一文に美醜の逆転をふくんだ印象深いレトリックももうずいぶんつかいまわされているのだろうけれど、まいにちあれこれに酷使する自分の手指でさえも、その用途を頭のすみに押しこみ、一片の造形物としてつとめて観賞すれば、骨や筋のふくらみ、肉のおくから透ける血管の青み、関節のつくる皮膚のたるみ等、陰部に負けずおとらずの醜悪ぶりをみせ、しかし自然の生んだ造形物というものは元来そのように、よどんだ曲線や色合いをおおくふくんだものであるはずで、かりに日本人が素っ裸で生活していたならば、生殖器をまのあたりにして恥ずかしくもなんともなく、ただ手指や足指とおなじ肉の末端にすぎないと思い過ぎるのだろう。これは逆をいえば、線や色彩の自然なよどみがいびつなものに感じられるほどに、われわれの生活が非自然的なフォルムの人工物でみたされている、ということである。



 ひとのからだとおなじに自然物である植物も、凝視してときおりどきりとするようないびつさを含む。湿ってはがれかけた樹皮や、ごぽりとした節くれ、無分別に緻密な葉脈、粉をふいてからまる花芯。熟れて溶けかけた果実をおおう小虫の貪欲。種をはらみいのちを継ぐ、というような生命のただしい規律や秩序は、混濁的な曲線造形のおくにかくれ、人工物の計画的な直線になれたわれわれの眼に、どぎつさをもって自然の混沌をみせつける。



 居住空間というものはまごうことなき人工物で、森を更地にし、切り出した石や木々を加工し、自然をふみにじってすえつけられたひとの住まいであり、そして居住空間をいろどる什器調度も同様に、人工物であるはずである。じじつ、今回の個展がひらかれたカフェの、テーブルや椅子をはじめとしたほとんどの調度が、直線あるいはあつかいやすい程度にゆるやかな曲線で、しめしあわされている。



 テーブルのうえにぽつんと置かれた花器、壁に吊られたおおきなオブジェ。作品をのぞきこめば萌えひろがる樹木のようにいびつで、もてあまし、部屋ごと俯瞰すれば不思議にそこにおしとどまっている。カフェの人工的な空間にとっては違和でしかないはずのものが、違和のままのいびつな造形をたもちつつ、違和をのりこえて周囲とまざりあい、あらたな調和を生みだしていく。



 いごこちよく調律されたカフェはその調律のままにやわらかく、机上や壁にすえられた造形物じたいにぎゅっと視線をあわせると、そこからじろりとにらみかえされる。作品を凝視し、作品のおかれた机をながめ、作品のならぶ乳白色の壁をとらえ、珈琲に酔ったくびやからだをあちこちにまどわせつ、作品と店のまざりあう景色の妙をたのしんでいく。テラスにむいてひらかれたおおきな窓の先で、ひかえめに繁茂した草花がおだやかな風景をつくっている。ここちよい苦さのかおる席上からはうかがえないけれど、きっとあのつつましい花や木も、間近でみつめればどきりとするような顔を見せるのだ。



 思うにすぐれた造形作品とは、受け手や使い手に、空間のつかいかたを上手におしえてくれる教師であるのだろう。手元でのぞくにしろ遠巻きにながめるにしろ、どのような視点にもつめあとをのこして、鑑賞者のインスピレーションをかきたてる。すぐれた皿鉢は、盛られる菜に、そえられる小鉢に、酒器に、皿鉢どくとくの感性でもって随伴者をえらび、食器をもちいる人間の感性とかたらって、食卓のうえの配置の妙を手ほどきする。上等な楽器や音響空間が演奏者に、うつくしい音色とはなにかを教えていくように。



 すぐれた芸術作品は鑑賞者にかたりかけ、ぽろぽろと返答をひきだしていく。作品によってうながされたこころのうちの対話から、鑑賞者はあらたな自分を発見する。感性とはつねに、外部からあたえられるものであるのだろう。



 凝視してどきりとするテーブルのうえの銅作品も、苦いこうばしさのけぶるここちよいカフェの空間も、それぞれのやり方で、席上のわれわれに語りかけている。空間、作品、窓に切りとられた草花とまちの風景。これらを享受することは、ひとつの対話なのであり、鑑賞者がこころのうちとそとのまじりあう狭間であらたな自己を発見し見つめなおす、ひらかれた出会いをうけいれるような、みずからを洗い刷りなおす行為なのだろう。






 とまあかたくるしく息巻きましたが、上記の拙文はけっして、今回カフェにかざられたあいくるしい造形作品がたの見方を一様に固定するものではございません。作品の印象がマシュマロだろうがクッションだろうが大仏さまのブツブツのおぐし(螺髪ra-hotsuっていうそうですよあれ)であろうがなんにせよ、ふところふかくありえるべきだとおもいます。なんせ芸術・工芸というものは、作品にふれた当のひとそれぞれのこころのうちで、思い思いに咲く花のようなものであればよいのでありますから。
タグ:ライブ CNC
posted by rin_kun at 00:32| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月16日

blog、はじめました。




 blog、はじめちゃいました。うおーどっきどきするぜー。
posted by rin_kun at 21:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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