2012年04月22日

文字はつづられていく。たぶん。

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 最近わたくし真人間になるためいろいろお勉強をしておりまして、デザインなんてものも、ちょぼっとかじらせていただいとります。


 しかしなんせ、絵は見るのは好きだけどまともに描いたこともない、昔からその方面で自分にセンスがあるとは思ったこたなし。さてどうしょーなにから手えつけよかなーと思いあぐね、「そんじゃタイポグラフィとかどうだろか? 絵じゃなくて字だし」と、安易に購入したのが以下の本。


文字講座 [単行本] / 文字講座編集委員会 (編さん); 誠文堂新光社 (刊)


文字講座 [単行本] / 文字講座編集委員会 (編さん); 誠文堂新光社 (刊)



 さて上掲の本をぱらぱらめくりつ、思いついたことを気侭に書き下してみようと思います。


 サンセリフ体活字は産業革命のころにディスプレイ書体として生まれて、やがて現在のように本文組版にも使われるようになった話をしてきました。では実際にサンセリフ体の文字形態はというと、実はもっと昔からその例はありました。それは石に刻まれた文字です。少し例を見てみましょう。紀元前のギリシャの碑文です。単純に石に引っ掻いたようにして彫られた文字ですが、サンセリフ体の特徴である、セリフがなくて同一線幅の文字です。<……>

 このような刻まれた文字や碑文を見ると、サンセリフ体の概念とは骨格そのものであり、文字の本質的な形態を表していると言えます。

『文字講座』p67-68 文字講座編集委員会 誠文堂新光社2009


 輪郭は平面を予想する絵画であるが、線は立体と運動を含むデッサンである。その長短あるいは強弱の線の交錯が、律動を可能にする。<……>漢字がまた書の芸術でもありうるのはそのためである。

『漢字の世界(1) 中国文化の原点』p6 白川静 東洋文庫1976


 セリフとは、文字を構成する線の、起筆や終筆についたもりあがりで、活字が生まれる前、手書きで文字を書いていたころの、筆の運びの名残りだと思ってもらえばよいです。セリフ体/サンセリフ体は、和書体でいえば、明朝体/ゴシック体のちがいです(サンセリフ体はところによっては「ゴシック」や「グロテスク」とも呼ばれています)。


 文字はほかの文字と組み合わされることによって、はじめて意味をなす(特に表音文字)。「あ」や「う」といったひらがなは音素とはむすびつくが、単体では意味をなさない。セリフ体の持つ線の抑揚は、そうした文字の性質を、視覚的にもあらわしたものである。


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 このアンティークの葉書なんかがいい例になると思います。1915と書かれているから、ちょうど100年ほどまえのフランスのもの。活字の印刷物とちがって、単語がながれるようにひとつづきの筆で綴られている。


 セリフというものは、こうした手書き文字のもつ筆運びのなごり。文章が活字ひとつひつの羅列ではなく、文字から文字へとながれゆく、そのさまであったころのなごりです。


 そしてもうひとつ、この葉書きで注目すべきところ。それは文字と余白の構図です。


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 横向きにカンバスをひろげた葉書の上端部。横幅いっぱいの罫線の上に見出しのように中規模の文字がならび、その下で紙面は縦に二分されている。左には密にちいさな文字がつめこまれ、右には可読性を重視した、太くおおきい筆はこびで文がつづられている。


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 左端の余白には書ききれない文字をつめこむように急に縦に筆が走り、紙面の濃さは左に大きくかたよっているけれど、余白のおおい右側の、判子と赤色の活字がアクセントとなって、うまいこと密度の不均衡を中和している。


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 紙面右部のふたつの丸い判は、葉書の投函されたあとに役所で捺されたものだろうけど、これだって当時の局の職員が、あまった余白になんとなく気をくばって配置したものだと思いたい。


 判と書き文字が雑多に、縦横に密につめこまれた紙面には、現代の印刷物のような静かな清潔さはないけれど、書き手の持つデザインへの意図は、やはりどこかに感じられます。そしてなによりまず、字がめさきれい。昔の人はたくさん書いたぶん、文字のかたちや配置にたいしても敏感だったのだと思う。携帯やスマートフォンが普及して、そもそも文字を書く習慣が希薄になった現代では、こんなふうに白紙を文字でデザインする、という感覚も、失われてきてるのでしょう。


 あるべきものをあるべきところにおさめ、美しいものをつくる、というセンスは、磨かなければ光らない。まあ、ちょっと話がそれたので閑話休題。


 とまれそんなふうに、手書きの文字のようなうごきを持たない、とまった文字であるサンセリフ体の起源を、『文字講座』執筆陣のひとりである杉下城司氏は上述の引用のように、紀元前のギリシャの碑文にもとめていてこれは大変興味深いところ。


 すこし拡大解釈して、たとえばプラトンのイデア論以来の、静的な、うごかない本質を設定しそれを追及する西洋的な考え方と、つながりはなれを繰り返して、ゆっくりとゆらぎつづける関係性をこそ世界の主眼とするような東洋的な考え方。その対比を、サンセリフ/セリフという字体の二項対立に重ね合わせてみても、面白いのではないかしら。まあ、このへんは知ったかですが。


 19世紀産業革命の折、広告やポスターなどのために、誘目性を重視して使用されはじめたディスプレイ用の書体、サンセリフ。太書きの静的な形象は、書かれた文字の純粋な意味を、読み手につよく、魅力的に印象づけます。


 転じて線の抑揚に、古来よりの手書き文章のなごりをのこしたセリフ体。セリフを持つことにより、字体に多くの余白をふくみ、ちいさく文を詰めても可読性はそこなわれない。文章はどこまでもつづられ、ながれて、複雑に意味をなしていきます。


 冒頭の白川静の言を借りるなら、前者はそびえたつ立体であるし、後者はながれゆく運動なのでしょう。こんなふうにことばひとつ考えてみても、書体を違えば、その掘り下げ方はおおきくことなっていく。おなじことばをつづれど、出し方や見せ方がかわれば、当然伝わり方もちがってしまう、ということです。


 文字はつながって意味を成し、意味を成した文字列は読まれるたびに、誤解や新たな解釈をふくんであちこちにとびちっていく。


 つづられた文字の数だけ、読まれた文の数だけ、意味が存在してしまうのなら、結局のところことばは真実など持ちえないのかもしれない。しかし、そんな多様性、多面性こそが、そのままわれわれの世界のおもしろさなのだと思います。

posted by rin_kun at 21:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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